奥黒部の自然
厳しさに耐え 命養う森
和田直也 富山大学理学部
2001年10月20日 読売新聞北陸版

何百年もかかって木々が成長し、光合成によって有機物を生産し、岩の上を土壌で覆ってこの森林を形成してきたに違いない。太い枝のように発達した巨大な根が岩を包み込んで、土壌の流出や斜面の崩壊を防いでいるかのようである。このような木々の営みがあるが故、その森が豊富な水を貯えながら黒部川を潤しているのであろう。それはまた、林床に咲く草花、ツキノワグマやカモシカ等の野生動物を育むだけでなく、イワナをはじめとする川の生き物をも養っていることに他ならない。奥黒部のイワナは、アリをはじめとする森林棲の昆虫類をたくさん食べて生き抜いている。スマートではないが、逞しい根系を発達させた木々からなる森が、奥黒部の厳しい自然を豊かにしているのであろう。


Photo by N. Wada (5 July 2001)

 2400㍍を過ぎれば、ハイマツと高山植物の世界である。北西風をもろに受ける風衝地では、ミヤマキンバイ、タカネスミレ、ミヤマタネツケバナ、チシマギキョウなどが生えている。いずれも背丈は数センチに過ぎない。風下側のハイマツの周りには、ガンコウランやコケモモに混じってリンネソウが可憐な花を咲かせていた。

 赤牛岳の頂上付近で、ライチョウの親子に出会った。夏の初めには、母鳥は四、五羽の雛を連れていたが、夏の終わりには二羽しか確認できなかった。氷河時代の生き残りと言われるライチョウでも、ここ北アルプスの厳しい環境の中、雛を無事に育てることは容易ではないようだ。ホシガラスがハイマツの種子を運び終わるころ、短い高山帯の夏は終わり、また厳しい冬が訪れる。この時期、ライチョウたちは亜高山帯の森に下りてきて、木の芽を食べるという。

 カモシカ、イワナ、そしてライチョウ、棲む場所も食べ物も生活様式も全く異なる動物達であるが、奥黒部の深い森からたくさんの恩恵を受けて生きているという点では共通している。奥黒部の自然の豊かさとは何か、それは一言では説明できそうにない。しかし、険しい地形と厳しい気象条件にうまく適応した木々からなる森が、直接・間接的に様々な生物の営みを可能にする環境を作り出し、そこに生き物たちの多様な絆を生じさせているとすれば、その関係をいとも簡単に壊してしまう我々人間の手があまり加わって来なかったこと自体、逆説的ではあるが「奥黒部の自然の豊かさ」をもたらしていると言えるかもしれない。今年、読売新道の修復と整備が、室堂山荘の人たちの手で行われている。人工物を極力用いず、大木の根を生かし、自然に配慮した登山道は、歩いていて心地よい。          戻る

 黒部湖から上流部に向かって歩くこと数時間、いくつもの崖や沢を巻き、大木の根をまたぎ、サワグルミやオオシラビソに囲まれた山小屋・奥黒部ヒュッテにようやくたどり着いた。ここは、北アルプスのヘソといわれる赤牛岳や水晶岳につながる登山道・読売新道の入り口にあたる。また、黒部川の支流・東沢谷と黒部川の本流が合流する地点でもあり、まさに森と川に囲まれた自然の豊かな場所でもある。七月上旬、川の水温はまだ10度以下と冷たいこの時期に、奥黒部ヒュッテから黒部川の本流部に下りてみた。大きな岩がごろごろと転がっている広い河原から、木々の若葉を映しながら勢い良く流れている川を眺めていると、背後にカモシカが現れ、ゆっくりと河原を横切って崖を登って行った。


Photo by N. Wada (5 July 2001)

まだ釣り人や登山者も少ないこの時期は、こういった野生動物との思わぬ出会い、コマドリやオオルリたちのさえずり、落葉広葉樹と常緑針葉樹が織りなす淡い緑と濃い緑の絶妙なコントラスト、沢沿いに咲く可憐な花々などから、ここ奥黒部の自然の豊かさを存分に感じ取れる。しかし、それとは対照的に、雪解け水を、轟音とともに、絶壁の間をぬって一気に下流へと運ぶ黒部川や東沢谷の激流、上流から運ばれてきた大きな岩石や倒木、絶壁に根を張りながら辛うじて立っている木々等の景観を目にすれば、とうてい我々には太刀打ちの出来ない自然の厳しさもひしひしと伝わってくる。

 標高1500㍍の登山口から、2864㍍の赤牛岳頂上まで、読売新道を登ってみることにしよう。はじめは、亜高山帯の森の中を歩く。オオシラビソ・コメツガ・トウヒの林、クロベやチョウセンゴヨウの大木も混じる。急な斜面には天然のカラマツの林。2000㍍付近に来ると、幹の太さが約1㍍もある立派なクロベの林に出会う。更に登ると、岩の上に太い根を下ろして生育しているコメツガが優占し、オオシラビソやダケカンバと混じって森林の限界(標高約2400㍍)をむかえる。標高差九百㍍の連続した森林帯に共通している特徴は、急峻な斜面の岩礫地の上に木々が生育していることである。


Photo by T. Kitabatake (Aug. 2001)