1.遷移金属錯体会合体の励起状態ダイナミクス
金や白金などの比較的重い金属原子の間には金属原子間相互作用とよばれる引力が働くため、これらの錯体は、溶液中で会合体を形成することが知られている。さらに、多くの金や白金錯体の会合体の光励起状態では金属原子間に共有結合が生じると予想される。また、励起会合体の発光は、会合度によって大きく変化するので、発光色を調光できる発光素子、あるいは環境応答型のセンサーとして広く注目されている。

1.1. 金原子間の結合形成に伴うジシアノ金3量体の励起状態ダイナミクス(J. Am. Chem. Soc. 135, 538-541(2013))
励起状態での金原子間結合を示す実験的証拠を得るため、我々はフェムト秒過渡吸収分光法を用いて、ジシアノ金(I)錯体の水溶液の光照射直後の吸収スペクトルの時間変化を観測した。光をあてた直後のスペクトルのピークの位置が、およそ10 兆分の1 秒という周期でゆれている様子を観測した(図1.1.1)。このスペクトルの「ゆれ」の周期を理論計算から予想される会合体の振動周期と比較したところ、会合体内における金―金原子間距離の伸縮振動に一致した(図1.2.1)。この結果は、金原子同士の間の結合生成についての実験的証拠であると同時に、溶液中での分子間結合生成の瞬間を捉えた成果でもある。

図1.1.1 ジシアノ金3量体の過渡吸収信号と振動スペクトル

図1.1.2. ジシアノ金3量体の金―金伸縮振動 (96 cm-1)

吸収スペクトルの変化を追跡すると、振動情報を基に帰属された3量体に帰属される吸収帯が100 億分の1 秒ほどの時間をかけて吸収強度が増えていく様子が観測された(図1.1)。この変化の様子について量子化学計算を用いて詳しく解析したところ、金錯体の会合体が結合生成により強く結びついて、ゆるんだ鎖が硬い棒になるように、だんだんとまっすぐになる様子に対応することが分かった。

1.2. ジシアノ金2量体の励起状態ダイナミクス(Phys. Chem. Chem.Phys. 18, 5103-5107(2016))
2量体を選択的に励起する266nmのレーザーパルスをジシアノ金水溶液に照射し、時間分解吸収スペクトルを計測した。時定数26psで減衰する吸収帯が観測された(図1.2.1左)。この吸収帯の初期には、2量体の伸縮振動(図1.2.2)に帰属される量子ビートが観測された(図1.2.1右)。3量体で見られた構造変型を反映するピコ秒領域の吸収強度の増大過程は、2量体に対応する時間分解吸収スペクトルでは現れなかった。すなわち、2量体に「曲がる」変形はなく、上述の3量体の構造変形の帰属を支持する。


図1.2.1. ジシアノ金2量体の過渡吸収信号と吸収信号の量子ビート

図1.2.2. ジシアノ金2量体の金―金伸縮振動 (130 cm-1)

1.3. 共存イオンによる発光増強>(Inorg. Chem. 55, 7739-7746(2016))
我々は、溶液の濃度や共存イオンの調整により、より大きなジシアノ金の会合体を形成させることに成功した。とくに、テトラエチルアンモニウムイオンが共存する溶液では、大きな会合体の形成を示す吸収、発光帯の顕著なレッドシフトが観測され、また発光量子収率が40倍近く大きくなることを見出した(図1.3.)。

図1.3. ジシアノ金3量体のテトラエチルアンモニウムイオン添加による発光増強

1.4. 大きなジシアノ金会合体を含む多様な会合体の核波束運動による分光学的識別法>(J. Phys. Chem. Lett. 9,24, 7085-7089(2018))
テトラエチルアンモニウムが共存するジシアノ金(I)溶液では、大きな会合体が生成していることが明らかとなった。大きな会合体は小さな会合体と平衡関係にあるので、こうした水溶液中では様々な会合体が混在していることが予想される。そこで、時間領域により観測される振動により分光学的に吸収帯の帰属が決められる点を利用し、過渡吸収信号を波長分散し、時間領域に現れる振動情報を波長別に解析した。その結果、信号に含まれる振動数から3量体-5量体の吸収帯を同定することができた(図1.4)。

図1.4. ジシアノ金会合体3,4,5量体の核波束運動の観測波長依存性

1.5. テトラシアノ白金会合体会合体の核波束運動>(Angewandte Chem. Int. Ed. 51,14, 23154-23161(2020))
テトラシアノ白金錯体水溶液に対して過渡吸収分光計測を行った。研究1.4で開発した解析手法、すなわち時間領域に現れる振動情報を波長別に解析した結果、信号に含まれる振動数から3量体と4量体の吸収帯を同定することができた(図1.5)。また、これらの情報と濃度依存性を詳しく検討した結果、従来3量体と4量体とされていた吸収帯と発光帯が、2量体と3量体に帰属されることを明らかにした。

図1.5. テトラシアノ白金会合体の励起状態の吸収スペクトルの時間変化(上)と励起状態の振動数の観測波長依存性(下)


2. 希土類錯体の誘起円偏光発光を利用したキラルセンシング
発光性希土類錯体は、発光寿命が極めて長いこと、特徴的なスペクトル形状から、同定が容易であることなどの特徴から、発光プローブ分子として有用である。これに加え、キラルな環境において強い円偏光異方性を示す性質がある。我々はこれらのことに着目し、発光種の同定とともにキラリティも判定できるキラルセンシングシステムを構想している。

2.1. 水溶液中のアキラルな希土類錯体のアミノ酸による誘起円偏光発光 (Inorg. Chem. 51, 4094-4098(2012), Inorg. Chem. 53, 5527-5537(2014))

図2.1に示す[Eu(pda)2]-錯体は、結晶中ではアキラルな構造を有するため、円偏光異方性を持たない。しかしながら、水溶液中でアミノ酸が共存するとき、いくつかのアミノ酸で円偏光が誘起されることを見出した(図2.1)。スペクトルの変化のアミノ濃度依存性を注意深く調べると、Eu(III)錯体に複数のアミノ酸が会合して円偏光を誘起していることが分かった。

図2.1. [Eu(pda)2]-のアルギニンによる誘起円偏光発光

2.2. 誘起CPLのアロステリック効果 (Chem. Asian. J. 14, 561-567(2019))
誘起CPLのLDモル比率依存性を調べると、アルギニンでは、同じキラリティのアミノ酸が選択的に会合する性質があることが分かった(図2.2)。すなわち、ひとつのアミノ酸の会合が、続くもうひとつのアミノ酸の会合のキラリティを決める、キラル選択的なアロステリック効果が働くことを見出した。これは、アミノ酸がCPLを誘起するときに、希土類に構造変形をもたらしている強い証拠である。

図2.2. アミノ酸水溶液中における[Eu(pda)2]-のアロステリック効果によるキラルな構造への変化と誘起円偏光発光

2.3. 誘起CPLの置換基効果(Chem. Asian. J. 11, 2415-2422(2016))
キラルセンシングの選択制は、配位子の置換基により変化させることができることを明らかにした。例えば、図2.3に示すとおり、フェナントロリン誘導体ではアルギニンを検出するが、バソフェナントロリンでは、オルニチンを検出する。これは、化学修飾できる箇所の少ないジピコリン酸などを用いた従来の誘起CPLに対して非常に有利な点である。すなわち、フェナントロリンの豊富な誘導隊群を用いれば、様々なキラル分子へ対応できると期待できる。

図2.3. [Eu(pda)2]-およびその誘導体と、これらにCPLを誘起するアミノ酸

2.4. 誘起CPLのを利用した顕微キラルイメージング(Chem. Asian. J. , 15, 1, 85-90(2019))
発光を検出するCPL分光と蛍光顕微鏡を組み合わせれば、キラル分子の分布を観測できる顕微キラルイメージングが可能である。寒天試料中にD/Lアミノ酸を不均一に、[Eu(pda)2]-錯体を均一に分散させた試料を作成し、円偏光を検知できる蛍光顕微鏡を用いて試料をスキャンしたところ、寒天に分散させたアミノ酸のキラル分布をマッピングすることができた。これはCPLを用いたキラル分布が、寒天のようなゲル試料では有効であることを示した最初の例である。

図2.4. [Eu(pda)2]-の誘起CPLにより検出された寒天試料中のアルギニンのキラル分布

3. 遷移金属錯体の構造変型過程
遷移金属錯体の構造変型過程を、超高速時間分解分光法などの手法を用いて研究している。

3.1. 銅(I)錯体の励起状態のヤーン・テラー変型に対する置換基の影響(Chem. Lett., 45、2、167-169(2016)
蛍光アップコンバージョン法を用いて、銅(I)錯体の蛍光の超高速緩和過程を計測した。構造変型過程に対応するスペクトル変化は、フェナントロリンの4,7位に付加された置換基の影響を受けなかった。2,9位の置換基を変化させた場合は大きく変化することから、置換基の立体反発が構造変化過程に影響を与えていることが明らかとなった。

図3.1. [Cu(4,7R-phen)2]+の時間分解蛍光減衰