講義内容
講師 鷲津 仁志 先生(兵庫県立大学) タイトル 実用材料系の分子シミュレーション入門
ここでいう「実用」の意味は,「理想」の対義語として捉えたい.理想的な条件とは,純物質,絶対零度,バルク,静的といった,材料のシミュレーションで極一般的に用いられるが現実的でない条件である.鉄を室内に放置しておくと表面から錆びていくように,実用材料は,混合系であり,熱雑音に塗れ,界面を有し,動的な挙動が重要であることが多い.物理化学における理想気体の概念があくまでも思考上の存在であるように,本来あらゆる材料のシミュレーションは実用的に考えることが必要であり,実用という言葉からイメージされる工業的な価値の有無とは別種の問題である(本来は「実在材料」といった方が適切かもしれないが,ほとんど用いられない).。
本基礎講義では,その典型例として動摩擦現象を考える.動摩擦現象は,本質的に界面現象であり,動的であり,エネルギー散逸を伴う.具体的な系として油による潤滑を考えると,本質的に混合系となり,金属,無機物,有機物,固体,液体といった分子シミュレーションの代表的な対象を一つのシミュレーションの中で扱わなければならない.その意味で,潤滑系は,分子シミュレーション入門の題材してきわめて優れているといえる.さらに応用として,たとえば生物の関節がなぜ低摩擦なのかという素朴な問題を考えると,溶媒中の高分子やイオンという,長距離力を含むマルチスケール系を扱う必要がある.粗視化シミュレーションにおける溶媒和,溶媒の流れ,長距離力の扱い方は,基本的かつ未解決の課題である.これら粗視化シミュレーションにおける新規手法開発のトピックを含め,分子動力学の基礎から,自動車のトライボロジーや電池材料などの応用的な話題まで,産業界における経験談を交えて紹介したい.
講師 山下 雄史 先生(東京大学) タイトル タンパク質の分子動力学シミュレーションの基礎と新しい分子設計技術への応用展開
分子動力学シミュレーションのアルゴリズムや技術を一般的な教科書で勉強しても、なかなか分子動力学シミュレーションを使いこなせるようにはならない。これはおそらく、どういう特徴を持つ系のどの物理量を重視するかで研究の手続きは大きく異なるからなのであろうと考えられる。ひと口に「分子動力学シミュレーションをする」と言っても、研究ごとにシミュレーション条件の設定が変わってくるのである。これは、変分原理に基盤を置く静的な分子軌道法計算とは全く異なる特徴である。
本講義は、創薬への応用を目指すという具体的な目標に向かっておこなった研究経験に基づくものである。創薬応用で求められる分子動力学シミュレーションの役割の1つは、非常に定量的な物理量予測である。特に、標的タンパク質への親和性(結合自由エネルギー)が十分に強い薬剤候補の開発は、創薬プロセスにおいて1つのボトルネックとなっており、結合自由エネルギーの定量的予測は創薬プロセスの効率化の鍵となっている。本講義では、分子動力学計算の基礎を復習したのち、創薬分野での分子シミュレーションのニーズを解説する。さらに、定量的な計算予測に必須である自由エネルギー計算の理論と力場の重要性について解説していく。また、時間が許す限り、最近の研究例を多く紹介し、事例の中から具体的な分子動力学シミュレーションの活用法を学んでもらいたい。本講義を通して、「分子動力学シミュレーションの知識」を「分子動力学シミュレーションを使いこなすための知識」へと発展させてもらいたいと考えている。
講師 金 鋼 先生(大阪大学) タイトル ガラス転移の遅いダイナミクス:分子動力学シミュレーションによる解析
ガラスとは広く, 過冷却状態で分子がアモルファスな配置のまま運動が凍結してしまい固体的になってしまった状態のことをいう.多くの物質でガラスを実現することは知られているが, その一方でなぜガラスを形成するのか,ガラス転移を引き起こす本質的なメカニズムは未だ解明されていない.現在までのところ,ガラス転移の全体像を包括し最終結論に至る議論をすることは極めて難しいが,ガラス転移の最も顕著な性質について焦点を当てることによってその本質に迫ろうとする研究が数多くなされhotでactiveな分野を形成している.ガラスの最も顕著な性質とは, 液体と酷似した構造をしているにもかかわらず,粘性係数や構造緩和時間などの動力学が温度の低下とともに急激に増大し, その緩和動力学が極めて緩慢になることである.また系を構成する化学組成を変えても緩慢な動力学は共通して見られ,ガラス転移の背後に何らかの普遍性が存在することを示唆している.この構造緩和の緩慢さの微視的なメカニズムを特定することが当該研究分野において最も挑戦的な課題であるとされている.
本講義はガラス・過冷却液体に対する分子動力学シミュレーションに焦点を当てているが,そこで実践的に必要なのが平衡統計力学・非平衡統計力学の理論である. それらに基づいて,液体状態を特徴付ける理論体系が液体論として知られている. そこで液体論の理論枠組の一部について概説する. 特に時間の許す限りではあるが,液体状態の静的構造・動的構造・時間相関関数・輸送係数について極力self-containedになるように講義したい. また,講演者の最近の研究を通して, ガラス転移の分子シミュレーション研究について紹介する予定である.